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『カッコーの巣の上で』を医療者になってから再見して思ったこと
若い頃に観た映画を、年齢を重ねてからもう一度観ると、まるで別の作品のように感じることがあります。
先日、『カッコーの巣の上』で を久しぶりに観返しました。
中学生か高校生の頃に一度観て以来だったと思います。
当時は、とにかく主人公の自由さや反抗心に惹かれました。
管理された病棟。画一的なルール。息苦しい空気。
そこに現れる ジャック・ニコルソン扮するランドル・マクマーフィー の存在は、とても魅力的でした。
人間の尊厳なんて言葉は知りませんでしたが、「人間らしく生きること」を体現しているように見えたのです。
しかし、医療者になってから観ると、まったく違う感情が湧いてきました。
もちろん、今回も私は主人公に強く共感しました。
患者たちが笑い、感情を取り戻し、自分らしさを取り戻していく姿には胸を打たれます。
一方で今回は、以前よりもずっと苦しい気持ちになりました。
なぜなら、医療者側の事情も少しわかってしまうからです。

「管理」は、本当に悪なのか
この映画に登場する 看護師長ラチェッド は、しばしば“冷酷な支配者”として語られます。
しかし医療現場を経験すると、彼女を単純な悪人として見ることが難しくなります。
彼女は秩序を守ろうとしている。
病棟を混乱させないようにしている。
患者同士のトラブルを防ごうとしている。
感情で場が崩壊しないようにしている。
これは、現実の医療現場でも日々行われていることです。
例えば、転倒を防ぐことや、暴力を防ぐこと、抜管を防ぐことなど、病棟全体の安全を守るためには必要なことです。
医療者は「自由を奪いたい」と思って働いているわけではありません。
むしろ、多くの人は「守りたい」と思っている。
だから、この映画は苦しいのです。
安全のために、人間らしさを削ってしまうことがある
医療や介護の現場では、「安全」が最優先になる場面があります。
それ自体は間違いではありません。
しかし、その“正しさ”が積み重なることで、いつのまにか人間らしさが削られていくことがあります。
例えば、転倒するから歩かせないことはあるし、危険だからと言って患者抑制することもあります。
患者がせん妄などで指示が通らないということで管理を強めます。
もちろん、そこには理由があります。
スタッフ不足もある。
事故への恐怖もある。
責任もある。
理想論だけでは現場が回らないことを、医療者は知っています。
だからこそ、「尊厳を守れ」という言葉だけでは片づかない現実があります。
けれど同時に、私たちは忘れてはいけないのだと思います。
人は“安全に生かされる”ためだけに存在しているわけではない、ということを。
「生きる」とは何かを問い続ける映画
マクマーフィーは、騒ぎます。笑います。怒ります。反抗します。
医療的には「問題行動」に見える場面もあるかもしれません。
けれど、その姿には確かに“生きている人間”の力があります。
あの映画を観ていると、
「人間らしさとは何か」
「自由とは何か」
「守るとは何か」
そんな問いを突きつけられます。
そして、それは精神科病院だけの話ではありません。
医療、介護、リハビリ、教育、会社組織――あらゆる場所で起こり得ることです。
医療者になったからこそ、簡単に割り切れなくなった
若い頃は、「主人公が正しい」と単純に思っていました。
でも今はちょっと違います。
というのも、事故の怖さを知ってしまったし、それに伴う責任の重さを感じるからです。
だから、ただ「自由が大事だ」と叫ぶだけでは済まないこともわかる。
その一方で、管理ばかりが強くなると、人間は静かに壊れていく。
その両方がわかってしまうから、観終わったあとに、何とも言えないやりきれなさが残るのだと思います。
けれど私は、その“割り切れなさ”を持ち続けること自体が大切なのではないかと思っています。
人を「安全」にすることと、
その人が「人間らしく生きること」。
その間で悩み続けることこそ、医療に必要な感覚なのかもしれません。
最後まで答えは出ないのでしょうけど。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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