『みんなちがって、みんないい』の違和感

『みんなちがって、みんないい』の違和感

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以前にブログで「みんなちがって、みんないい」という詩や「障害は個性」という言葉に対する違和感を書きました。

「みんなちがって、みんないい」という言葉は、詩人の金子みすゞさんが使った言葉です。

もしかしたらご存知ない方もいらっしゃるかもしれないので、

ここで少し紹介しますね。

 

『みんなちがって、みんないい』

以下、引用です。

 

私が両手をひろげても、

お空はちっとも飛べないが、

飛べる小鳥は私のように、

地面を速く走れない。

私がからだをゆすっても、

きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴は私のように、

たくさんの唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、

みんなちがって、みんないい。

(金子みすゞ)

 

昔この詩を小学校の授業で先生から教わって、非常に感銘を受けたのを覚えています。

地球上の全てものは等しい価値があり、

そもそもこれらは優劣をつけられるものでもありません。そんな比べようないものを比べることが間違いと言えるのです。

そのことには共感します。

ただ、これを障害を持っている人に当てはめるとちょっと意味合いが変わってきます。

障害は個性だとか、キレイごとを言われると余計です。

障害を持っている人も、その存在に等しく価値があるのは当然でしょう。

でも障害は障害です。

生きていくのにざまざまな困難が生じていたり、葛藤を抱えています。

それを個性だと捉えるのはちょっと違うのではないかと思います。

だったら、極端なことを言えば「あの人はお金持ち、あの人は貧乏。みんな違って、みんないい」ってことになってしまいます。

さまざまな理由で貧困に陥ってしまった人が、人間らしい生活を営めるようにするという施策を行わないで、そんな美辞麗句を言われても困ります。

そういう社会がやらなければいけないことをないがしろにしておいて

「みんな違って違ってみんないい。」なんて言わないで欲しいです。

もし仮にどうしても言いたいのあれば、

生きづらさを解消する対策など、「やれることをやった後の話」です。

 

多様性は不干渉と表裏一体

美学者であり、障害にも造詣の深い伊藤亜紗さんは著作の『手の倫理』の中で、こんなことを述べています。

少し違う文脈の中で述べられていたのですが、

僕はこれを読んで、『そうそう、これが言いたかったこと!』と膝を叩きました。

少し引用しておきますね。

「多様性を象徴する言葉としてよく引き合いに出される『みんなちがって、みんないい』という金子みすゞの詩は、一歩間違えば『みんなやり方が違うのだからそれぞれの領分を守って、お互い干渉しないようにしよう』というメッセージになりかねません。つまり、多様性は不干渉と表裏一体になっており、そこから分断まではほんの一歩なのです。『多様性』という言葉に寄りかかりすぎると、それは単に人々がバラバラである状態を肯定するための免罪符のようなものになってしまいます。」(以上『手の倫理』より引用)

僕も最近の多様性という言葉の氾濫と、逆に社会が多様性と真逆の方向に進んでいるような現状に、苛立ちを感じます。

多様性を認めると言いながら、多様性を尊重していない、

障害者やマイノリティー、弱者がカタチだけ承認され、ただ放って置かれるその感じ、よくわかるような気がします。

皆さんは、どう思いますか。

 

お付き合い、ありがとうございました。

ありがとうございました。

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