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「自己責任」
意味は少し違っても、用いられる文脈では同じ意味の「自業自得」
この言葉を聞くと、軽いめまいを起こします。
今回解放された日本人学生に対するバッシングについて
香港で拘束されていた日本人学生が解放されて、
ホッとしたのも束の間。
ネットでその日本人学生が叩かれているというニュースを聞いて、
暗澹たる気持ちになっています。
ツイッターを覗いてみると、批判は次のようなものです。
・危険なところに行くのに危機意識が足りない。
・観光目的でいったことに対して、野次馬根性だと。
・政府の注意喚起に反して「自己責任」で行ったのだから、勝手にしろ。
・自己責任だから、政府が動くのはおかしい。
またまた出ました「自己責任」。
あまりのひどさにめまいが起こります。
批判すべきは、香港警察なのに、
批判の矛先が学生に向いているのです。
危険回避の方法に助言するのならともかく、
安全な場所から一方的に非難しているのです。
まったく思考回路が理解できません。
2004年のイラク日本人人質事件を発端に‥
「自己責任」
この言葉が一躍広がりを見せたのは、イラクでの人質事件だったと思います。
イラクの子供たちの支援に関わっていた高藤菜穂子さんをはじめ、
日本人3名が武装勢力に人質になりました。
武装勢力から、当時イラクに駐留していた自衛隊を撤退しなければ
3人の人質を殺すというニュースが流れて、
日本の中の意見が2分化しました。
邦人を助けるのは国の役割だから当たり前という冷静な意見があったり、
イラクの人々のために活動しているボランティアの人の命は最優先
という意見ももちろんありました。
しかし、これに対して、
国の勧告を無視して危険な国に行ったのは彼らの「自己責任」だから、助ける必要なしという、
「自己責任論」が広がり、一定の支持を得ました。
救助活動を「税金の無駄遣い」という人さえいました。
確かその当時の首相だった小泉さんの発言が発端だったように思います。
小池百合子もそんなことを言っていましたよね。
さもそれが当たり前の事柄のように語られました。
この間の人質になっていた日本人ジャーナリスト、安田公平さんが解放された時にも
同じような意見がネット上に拡散していました。
何度も人質になって、国に迷惑をかけるような奴を助ける必要はないなど、露骨な意見が多く聞かれました。
2004年のイラクの時より、状況は悪くなっているように思いました。
一般の人が当たり前のように「自己責任」という言葉を使って他者を批判をするようになりました。
彼のようなジャーナリストの存在があってこそ、
シリアや中東の状況が安全な日本にいて知ることができるのに、
そうしたことは言及されません。
日本人は、日本以外の国については興味もないように感じてしまいます。
広がる、息苦しい自己責任の社会
自己責任という言葉は、こうした世界に飛び出した一部の人に向けられるだけでなく、
あらゆる場面で使用されるようになっています。
生活保護の受給者やホームレスの人々をを自己責任だと叩くことも日常です。
「自己責任論」により、社会全体で個人を守ろうとする日本的社会は破壊されました。
社会には弱い人もいれば、強い人もいる。
強い人もいつ弱い立場になるかわからない。
そういう弱者に手を差し伸べられる社会が居心地のいい社会だと思います。
「自己責任」は弱者切り捨ての論理です。
ホームレスになったのは、全て自己責任?
そんな簡単な話ではないことは誰でもわかります。
人生には様々な困難が待ち受けています。
自分の力では何とも動かし難い苦境に陥ることもあります。
それを自己責任で片付けてしまうのは、あまりにも雑過ぎます。
自分の首を締めることに気がついていないと思います。
また、この世の中は、生まれたときの環境に左右されることは明白です。
その環境で教育が決まり、栄養状態も決まる…。
本人の努力により改善できる部分があったとしても、
大部分は生まれた時に決まっているのです。
それは本人の自己責任ではありません。
富む人は貧困層を助けなければならないし、
苦境にある人をそうでない人は助けてあげるべきです。
そうなるように社会の仕組みはあるべきです。
そんな余裕がなくなりつつある、息苦しい社会になっているのだと思いますが、
自分が苦しいからと言って、更に苦しい立場にいる人を標的にしないでください。
世の中には努力ができない人もいます。
努力しても、苦境から這い上がられない人もいます。
幸にして、助けてあげられる立場にいるのであれば、躊躇せずに助けてあげてください。
助けることで、誰もあなたのハシゴを外そうとはしませんから。
ありがとうございました。
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