療育第3回 「支援」と「代弁」のあいだ ― 手を添えることは、どこまで許されるのか ―

療育第3回  「支援」と「代弁」のあいだ  ― 手を添えることは、どこまで許されるのか ―

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シリーズ 療育 第3回

「支援」と「代弁」のあいだ

― 手を添えることは、どこまで許されるのか ―

これまで、重症児の「表現」について考えてきました。

  • 第1回では「これは誰の作品か」という違和感
  • 第2回では「表現とは何か」という広がり

そして今回は、もう一歩だけ踏み込みます。

私たちの関わりは、どこまでが「支援」で、

どこからが「代弁」なのでしょうか。

 

■ 手を添えるという行為

療育の現場では、ごく自然に行われていることがあります。

  • 手を添えて動きを引き出す
  • 視線や反応を手がかりに方向を導く
  • わずかな変化を拾って次につなげる

それは明らかに、

「できないことを支える」ための関わり

です。

この関わりがなければ、そもそも体験そのものが成立しない。

そういう場面も少なくありません。

■ 少しだけ視点を変えると

ただ、この関わりを別の角度から見ると、

こんな問いも浮かびます。

この動きは、誰が生み出しているのだろうか。

  • 本人の動きなのか
  • 支援者の導きなのか
  • その両方なのか

おそらく答えは、「そのあいだ」にあります。

 

■ 「代弁」が生まれる瞬間

もう一つ、少し繊細な話です。

たとえば、

  • 「この子は○○したいと思っています」
  • 「きっとこういう気持ちです」

そんな言葉を、私たちは自然に使います。

それは決して悪意ではなく、むしろ

その子の思いを、社会に届けたい

という優しさ、善意から生まれているはずです。

 

 

■ 支援と代弁の境界は、どこにあるのか

ここで難しいのは、

明確な線引きが存在しないこと

です。

  • 手を添えることは支援なのか、誘導なのか
  • 言葉にすることは翻訳なのか、創作なのか

どちらとも言えてしまう。

だからこそ、この問題は

正解ではなく、「姿勢」の問題

なのだと思います。

■ ひとつの目安として

現場で考えるヒントとして、こんな視点があります。

● ① 本人の反応が起点になっているか

  • わずかな動きや変化を拾っているか
  • 支援者が先に「こうしたい」を作っていないか

● ② 介入の量が大きすぎていないか

  • 動きの大部分を支援者が担っていないか
  • 「体験させる」ことが目的になっていないか

● ③ 意味づけが強すぎていないか

  • 曖昧なものに、明確な意味を与えすぎていないか
  • 「分かりやすさ」が優先されていないか

■ 「良かれと思って」が難しくする

このテーマが難しい理由は、

関わっている人が皆、

良かれと思ってやっている

という点にあります。

  • 楽しんでほしい
  • できる体験を増やしたい
  • 家族に喜んでもらいたい

どれも大切で、否定できるものではありません。

だからこそ、

気づかないうちに「代弁」が大きくなる

ことがあります。

 

■ それでも、支援は必要

ここで大切なのは、

だから支援をやめるべき

ではない

ということです。

むしろ逆で、

支援があるからこそ、表現が立ち上がる場面の方が多い

はずです。

 

■ だからこそ「揺れ続ける」

結局のところ、

  • 支援と代弁は分けられない
  • 常に混ざり合っている

そう考えた方が自然なのかもしれません。

だから私たちは、

「これは今、どこにいるのか」

と、少し立ち止まりながら関わる。

その繰り返しになるのだと思います。

■ 次回予告

次回は少し視点を変えて、

「“作品”にすることの意味」

について考えてみます。

形にすることは、本当に必要なのか。

それは誰のためなのか。

少しだけ、やさしく整理してみたいと思います。

 

 

 

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