療育第1回 これは本当に「本人の作品」なのか ― 重症心身障害児の療育で感じた小さな違和感 ―

療育第1回 これは本当に「本人の作品」なのか  ― 重症心身障害児の療育で感じた小さな違和感 ―

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療育シリーズ第1回

これは本当に「本人の作品」なのか

― 重症心身障害児の療育で感じた小さな違和感 ―

お正月が近づくと、特別支援学校の教室には「書き初め」が並びます。

新年度には、「今年の目標」が掲示されることもあります。

どれも、味のある作品です。

丁寧に書かれた文字や、思いのこもった言葉。

見ていると、自然とこちらも温かい気持ちになります。

けれど、あるときふと、立ち止まることがあります。

——これは、本当にこの子の作品なのだろうか。

◼️「○○をしたい」という言葉

掲示された作品の中に、こんな言葉を見かけることがあります。

「○○をしたい」

「○○ができるようになりたい」

もちろん、それ自体はとても前向きで、素敵な言葉です。

けれど、重症心身障害のある子どもたちの多くは、

  • 自分で文字を書くことが難しい
  • 言葉で意思を表現することが難しい

そんな状況にあります。

そう考えたとき、どうしても頭に浮かんでしまうのです。

——この言葉は、誰の言葉なのだろう。

◼️「支援」としての関わり

現場の先生方が、丁寧に関わっていることはよく分かります。

筆を持つ手にそっと触れる。

反応を見ながら、動きを引き出す。

その子らしい表現を、なんとか形にしようとする。

それは決して「作っている」のではなく、

むしろ

その子の表現を“引き出そうとしている”

関わりだと思います。

そしてそこには、

  • 季節の行事を体験してほしい
  • 家族に喜んでもらいたい
  • クラスとしての一体感を大切にしたい

そんな思いも込められているのでしょう。

◼️ それでも残る、ほんの少しの違和感

それでもなお、消えない感覚があります。

たとえば、

  • とても整った文字
  • 意味の通った文章
  • 「らしい」目標設定

それらを見ると、

「表現」ではなく「完成された作品」になっているのではないか

そんな気がしてしまうのです。

もちろん、それが悪いというわけではありません。

ただ、

本人の中から自然に出てきたものと、

周囲が意味づけて形にしたもの

この2つが、少しだけ混ざり合っているように感じるのです。

◼️ 重症児の「表現」は、もっと曖昧なものかもしれない

そもそも、重症心身障害のある子どもたちにとっての「表現」は、

  • ほんのわずかな手の動き
  • 視線の変化
  • 表情のゆらぎ
  • 筋緊張の変化

そういった、とても繊細で、曖昧なものです。

それは必ずしも「文字」や「言葉」になるものではありません。

むしろ、

形にならないまま存在しているもの

なのかもしれません。

◼️「形にすること」と「そのまま受け取ること」

私たちはつい、「形」にしようとします。

見えるようにすること。

分かるようにすること。

伝わるようにすること。

それ自体は、とても大切なことです。

でも一方で、

形にしないまま、受け取ること

にも価値があるのではないか。

そんなふうにも思うのです。

 

◼️ この違和感を、大切にしたい

この問いには、きっと正解はありません。

  • 行事としての意味
  • 家族への配慮
  • 教育としての役割

どれも大切で、どれも間違いではないからです。

それでも、

「これは誰の表現なのか」

と立ち止まることには、意味がある気がしています。

この小さな違和感を、なかったことにせず、

少しずつ言葉にしていく。

それ自体が、療育を考えるひとつの入り口になるのかもしれません。

◼️ 次回予告

次回は、

「重症児にとって“表現”とは何か」

について、もう少し深く考えてみたいと思います。

 

 

 

 

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