「普通」って、なんだろう

「普通」って、なんだろう

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「普通」って、なんだろう

僕は障害を負ってから、「普通」という言葉をよく考えるようになりました。

職場でも、障害を持つ人やそのご家族から「普通になりたい」または「普通になってほしい」という言葉を耳にします。

けれど、その「普通」って、いったい何なのでしょうか。

 

■ 社会が作った「普通」

多くの人が使う「普通」という言葉には、実は社会が決めた基準が隠れています。

歩けること、話せること、働けること、結婚すること──。

それらは「多くの人がそうしているから」という理由で“普通”とされてきました。

でも、そんな基準から外れた人を「特別」「異常」と分けてしまうのは、とても乱暴なことです。

人の数だけ生き方があり、環境や身体、心の状態も違うのに、ひとつの型に押し込めようとする。

「普通」という言葉には、そうした社会の都合が無意識に染みついているように思います。

 

■ 「普通になりたい」という願いの本音

「普通になりたい」と口にする人の多くは、

「他の人と同じように扱われたい」「特別視されたくない」という願いを抱えています。

それは「同じスタートラインに立ちたい」という切実な思いの表れです。

しかし、「普通」を目指すあまり、自分を責めたり、苦しめたりしてしまうこともあります。

社会が作った“型”に無理に合わせようとすると、

本来の自分を見失ってしまう危うさもあるのです。

■ 「普通」は一つじゃない

本当は、「普通」なんて一つも存在しません。

誰にとっても、生き方もペースも違う。

それぞれの毎日が、それぞれの「普通」です。

ゆっくり歩く人もいれば、車いすで移動する人もいる。

話すことが苦手な人もいれば、言葉の代わりに表情や文字で伝える人もいる。

補装具や介助を受けながら生活することも、その人にとっての“いつもの日常”です。

つまり、「普通」とは社会が定める型ではなく、

その人が生きている、ありのままの姿そのものなのです。

 

■ あなたの「普通」で、生きていい

「普通になりたい」という気持ちは否定すべきではありません。

ただ、その「普通」が自分の心が穏やかでいられる状態を指すのなら、

それはとても大切な願いです。

社会のほうこそ、「普通」の定義を広げる必要があります。

「歩ける」「話せる」だけが普通ではない。

「支え合って生きる」「違っていても尊重される」ことこそ、

これからの“普通”であるべきだと思います。

 

僕にとっての「普通」は、

たとえ片耳が聞こえなくても、言葉に時間がかかっても、

人とつながり、思いを伝えようとする日々そのものです。

きっと、誰にでもその人なりの「普通」がある。

それを大切にできる社会であってほしい──そう願っています。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

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