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障害を持って、初めて気づいた「共感」の限界
よく、「自分が障害を持つと、他者の痛みがわかるようになる」と言われます。
たしかに、私自身もそう思っていました。
しかし実際に片耳が全廃になり、脳の障害で失語症や高次脳機能障害を抱えるようになってから、その言葉の意味が少し違って見えるようになりました。
確かに他の障害を持つ人を見て、自分以外の人にも同じような苦悩があることを知って、「共感」のようなものを感じます。
しかし同時に「羨ましさ」や「比較の気持ち」が浮かぶことがあるのです。
「自分より軽いな」と思うこともあれば、「自分より重い」と感じて胸が痛むこともあります。
そんな自分に、時には嫌気がさします。
共感とは「同じように感じること」ではない
私たちは「共感」という言葉を、しばしば「感情の共有」と捉えがちです。
ですが、多分それは違います。
本当の共感とは、「相手の痛みを完全に理解できない」という前提に立ちながら、それでも理解しようとする姿勢ではないでしょうか。
自分が障害を持って初めてわかるのは、痛みの種類が人によってまったく違うということです。
身体機能の障害だけでなく、「以前の自分を失う苦しみ」「周囲との距離感」「他者との比較」など、見えない痛みの方がずっと大きいこともあります。
だからこそ、「あなたの苦しみは、私とは違うけれど、確かに存在する」と認めること。
それが共感の本質なのかもしれません。
比較や嫉妬も「人間らしさ」の一部
障害を持つと、どうしても「比較」の世界から逃れられません。
かつての自分と、今の自分。
他人の回復度合いや、できることの違い。
そうした比較の中で、羨望や嫉妬、自己嫌悪など、さまざまな感情が交錯します。
でも、それは決して恥ずかしいことではありません。
むしろ、人としてのリアルな心の動きです。
きれいごとだけでなく、そうした感情を自覚しながら、それでも他者と関わり続ける。
そこに、共に生きる力があるように思います。
「わかる」と言えない勇気
他者の苦しみを前にして、「わかる」と軽々しく言えなくなった自分がいます。
けれどそれは、決して冷たさではなく、本当の意味での思いやりかもしれません。
相手の世界を尊重すること。
そして、自分の弱さを認めながら、それでもつながろうとすること。
障害を持つことで得たのは、そんな「不完全な共感」の感覚でした。
完璧ではないけれど、確かにそこにある。
揺らぎの中にこそ、人と人との関係の温かさがあるのだと思います。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
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