パキスタンの人たちとの生活

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以前にも書いたことがありますが、

僕は過去に、日本に出稼ぎに来ていたパキスタンの方々と2年間に渡り共同生活を送っていました。

今回はその当時のことを少しだけ書きたいと思います。

 

インドから帰国して

インドから帰国して、学費が安かったリハビリの学校と看護師学校を2つ受験。

看護学校は受かったものの、一番行きたかったリハビリの学校は落ちてしまいました。

結局迷ったものの、1年間アルバイトをしながら

リハビリの学校、理学療法士の養成校を再受験することにしました。

そのために4月に上京しました。

住んだところは江古田。

武蔵野音大や日大芸術学部などがあり、いわゆる学生の街でした。

とりあえず食べるためのバイトをしながら、受験の準備などを始めたものの、

慣れない仕事内容に疲れてしまって、思うようにはいきませんでした。

その後、リハビリの養成学校に入るという目標は明確になったものの、

日々の生活には活気はありませんでした。

たった2年間のインド生活でしたが、どっぷりと浸かっていたため、

日本の生活習慣に馴染むことができませんでした。

インド人との密なコミュニケーションの毎日と比較すると、どーしても刺激が足りません。

インドの感情がむき出しのコミュニケーションと比べると、

日本人がみんな能面のように感じ、疎外感さえ感じていました。

今考えると、インドも日本も人対人のコミュニケーションなので根本的には変わらないと思うのですが、

当時はそう思い込んでいたようです。

 

パキスタンの方々との出会い

そんなある日、近所のスーパーでインド人らしき人達が買い物をしているところに出くわしました。

彼らが話している言葉も一部わかります。

「インド人かな」

思い切って声をかけていました。

ap India se ha in?(Are you from I ndia?)」

結果はNOでした。

彼らはインド人ではなく、パキスタンから来た人達でした

。ヒンディー語と思った言葉姉妹語とも言っていいウルドゥー語でした。

僕がインドに住んでいたこと、言葉も少し出来ること、

カルカッタで住んでいたエリアがイスラム教徒のエリアだったこともあって、

イスラムに関する知識がある程度あったことを知ると、面白がってくれて、ご飯に招いてくれました。

彼らとしても日本の文化や習慣を教えてくれる人が身近にいなかったこともあり、

そういう日本人を求めていたのかもしれません。

 

パキスタン人との共同生活

何度か彼らの家に招かれた後に、彼らとの共同生活が始まりました。

彼らが借りていた部屋は、一戸建ての2階部分の2部屋。

1階はラーメン屋のテナントが入っていました。

その2部屋に当時住んでいたのは僕を除いて5人。

時々が知人らしき人も泊まりに来ていたので、

10人近くになることもありました。

ご飯は床に敷物を敷いて車座で食べ、夜はごろ寝の生活でした。

彼らの信仰心は日本にいても変わらず、定時のお祈りは欠かしませんでした。

どこにいたとしても、時間になるとメッカの方向に向かって頭を下げていました。

彼らの大部分は印刷会社に勤めていました。

印刷会社の仕事は、その頃3K(キツイ、キタナイ、キケン)と言われていたものです。

単調な重労働で、日本人からは敬遠させていました。

雇う側も不法就労と知りながら、雇っていましたし、

その頃の入国管理局も目をつぶっていたと思います。

運悪く捕まり強制送還された人は、一定期間日本には来れなかったようですが、

捕まった人の大半は何事も無かったように戻ってきました。

彼らが体調を崩した時は、何度か一緒に病院に行き、通訳をしました。

日常会話はできていたものの、細かいニュアンスを伝えることはできません。

一緒に行って、そういったところのお手伝いをしました。

健康保険に加入できない彼らが、日本人と結婚して在留資格を取ったパキスタン人の健康保険証を使用しようとしたこともありましたが、

もちろん止めました。

それはなりすましの犯罪ですし、借りた側も貸した側も良いことはまったくありません。

でも、不法であっても働いて税金を払っている彼らが健康保険に加入できない日本の現実にも問題があるとは思います。

 

どうしても相入れなかったこと

普段は仲良く様々なことを話し合ったり、時に議論したりしたのですが、

いくつかのことに関しては、全く議論になりませんでした。

その一つはインドについてのことです。

彼らは総じてインドのことを快く思っていませんでした。

インドとパキスタンの関係性は決して良いとは言えません。

もちろんあえて政治的な話題を持ち出すことはありませんでしたが、

何かの拍子にインドのことを話題にすると、かなり否定的なことを返されました。

それが判で押したように皆同じなのも、ちょっと不可解に感じていました。

 

もう一つ。

女性の人権についても意見は対立しました。

イスラム教徒の女性の人権の制限は明らかにあると思うのですが、

彼らから言わせると、女性はそもそも弱い存在だから守ってやらないといけないそうです。

僕に言わせると、女性に必要なのは男性から守ってもらうことではなく、

自由に行動できるための権利と制度だと思いますけどね。

そのことについても、本当にみんな頑な。

他のことには柔軟な彼らも、宗教的なことに関しては全く他の意見を聞こうという態度ではありませんでした。

議論の余地は全くなかったと言っても言い過ぎではありません。

こどもの頃からそのように教育されてきたのだから、すぐに考えを変えるなんて不可能なかとかもしれませんね。

 

不法外国人労働者に対する非難について

日本には昔からそうしたらいわゆる「移民」のような人たちはいます。

日本人がやらないような3Kの仕事に携わりながら、必要な労働を提供しています。

日本の入管法はそうした外国人の「未熟練労働」を認めないでいながら、

一方でそれが日本の構造上必要と知りながら、黙っています。

まさに二枚舌です。

今では「外国人技能実習制度」という名前で、酷いことをを繰り返しています。

その頃から日本は何も進化していない国と言えるのではないでしょうか。

 

その後日談

そんな生活を2年過ごした後に、僕はリハビリの学校近くのゲストハウスに移りました。

勉強も忙しくなり、学校までの通学が2時間近くかかっていたことからの決断でした。

その後もしばらくは連絡を取ったり、

1ヶ月に1回くらいは一緒にご飯を食べたりしていました。

僕が病院でリハビリの助手として働き始めたことで忙しさも決定的になったことで、会うこともなくなりました。

今頃、どーしてるかな?

 

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