「最期まで見ることができてよかった」と言われたこと

「最期まで見ることができてよかった」と言われたこと

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「最期まで見ることができてよかった」と言われたこと

以前、私が担当していた患者さんの話です。

その方は50代で、難病を患い、重度の障害を抱えていました。

日常生活のほとんどに介助が必要な状態でしたが、施設ではなく、在宅での生活を選ばれていました。

介護を担っていたのは、ご高齢の両親でした。

決して楽な生活ではなかったと思います。

身体的にも、精神的にも、そして将来への不安という意味でも。

突然の入院と、最期

その患者さんは肺炎をきっかけに入院されました。

懸命な治療が行われましたが、回復することはなく、亡くなりました。

ご両親の悲しみは、言葉にできないほど深いものでした。

しばらくの間、声を上げて泣いておられました。

そして、少し時間が経ったあと、

お母さまが私にこう言われました。

「最期まで見ることができてよかった。

私たちが亡くなったあとに、1人残されることの方が心配だったから。」

この言葉を、私は今でも忘れることができません。

これは「救われた話」なのか

この言葉を聞いたとき、

「親としての覚悟」「深い愛情」として語ることもできるかもしれません。

けれど、私はこの話を美談にはしたくないと思いました。

なぜならこの言葉は、

前向きな希望から出てきたものではなく、

長年背負い続けてきた不安と責任の重さから生まれた言葉だと感じたからです。

  • 自分たちが元気なうちは何とかなる
  • でも、自分たちが先に亡くなったら、この子はどうなるのか

この問いは、毎日の介護よりも重く、

答えのないまま何十年も続く不安だったはずです。

「最期まで見ることができてよかった」という言葉は、

死を肯定した言葉ではなく、

“想像し続けてきた最悪の未来を、これ以上考えなくて済んだ”という安堵

そのようにも聞こえました。

 

「親より先に死ぬのは親不孝」という言葉

世の中には、

「親より先に死ぬのは親不孝だ」という言葉があります。

けれどこの言葉は、

自立して生き、世代が自然に受け継がれていくことを前提にした価値観です。

重度の障害があり、

  • 生活の多くを他者に委ねざるを得ない
  • 親が高齢になっても介護が続く
  • 親亡きあとを安心して託せる社会資源が十分とは言えない

そうした現実の中で、

この言葉をそのまま当てはめることが、本当に正しいのでしょうか。

 

もし、社会がもっと支えられていたなら

もし、

  • 親がいなくなったあとも安心して暮らせる仕組みがあり
  • 在宅でも施設でも「生きていける未来」が具体的に描けていて
  • 親が介護者である前に、ただの「親」でいられる時間がもっとあったなら

ご両親の言葉は、違うものになっていたかもしれません。

この問題は、

個人の覚悟や愛情だけで片付けられるものではなく、

社会の側がどこまで支えられているかという問題でもあります。

 

答えは出ないままでいい

私は、この出来事に「正解」を見つけることができていません。

そして、無理に答えを出す必要もないのだと思っています。

ただ一つ確かなのは、

このご家族は、長い時間をかけて「一緒に生きた」ということです。

それは、評価されるための物語ではなく、

静かに受け止められるべき現実だったと思います。

医療やリハビリに関わる者として、

こうした言葉に出会ったとき、

すぐに意味づけをしてしまわず、

立ち止まって考え続ける姿勢を忘れずにいたい。

この文章が、

誰かにとって答えではなく、

「考えるきっかけ」になればと思います。

 

 

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