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「役に立ちたい」という気持ちの裏側にあるもの
大学生の頃、僕は自分の進路について迷っていました。
これといった特技もない、頭が良いわけでもない。
多くの若者にありがちでしょうけど、「自分には何の価値もない」「役に立たない人間だ」と思い込み、進むべき道を見失っていました。
若い時は、誰もが一度はそう思うことがあると思います。
そんな時に出会ったのが、インドでのボランティア活動です。
路上生活者を援助する活動に加わり、食べ物や物資を配ったりケアをする中で、自分が役に立っているという実感を持ち、初めて「自分の存在に意味がある」と感じられました。
感謝の言葉や笑顔に触れた時の喜びは、今でも鮮明に覚えています。
けれども時間が経つにつれ、その体験を振り返ると、胸の奥に小さな違和感が残りました。
果たしてそれは本当に「彼らのため」になっていたのか。
僕が得ていたのは、むしろ「誰かの役に立っている」と思い込むことで得られる安心感や自己承認だったのではないか。
そう考えるようになったのです。
一方的に援助を与えることは、短期的には救済になりますが、相手の自立や尊厳を損なってしまう可能性もあります。
僕は「人の役に立ちたい」という純粋な気持ちの裏に、自分の存在意義を確かめたいという欲求があることに気づきました。
それは決して悪いことではありませんが、自覚を持たずに突き進めば、相手を支配したり依存させたりする危うさをはらんでいます。
ボランティア活動をしている人の中にそういう感じが匂うこともあります。
この体験から学んだのは、援助は「してあげる」ものではなく、「共に考え、支える」プロセスであるべきだということです。
短期的な善意も大切ですが、より重要なのは現地の声に耳を傾け、彼ら自身が持つ力を引き出すこと。
そして同時に、自分自身の承認欲求を自覚し、振り回されないように意識すること。
「人の役に立ちたい」という思いの純粋さと、その裏に潜む自己承認欲求。
この両面を抱えながら、危うさを忘れずに歩み続けることこそ、医療者や支援者として成熟する道なのだと今は思います。
なかなか難しいことですが。
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