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安楽死と尊厳死 ― 揺れる心のあいだで
■ はじめに
終末期医療における「安楽死」や「尊厳死」という言葉は、しばしば同列に語られます。
しかし、両者の意味は本来大きく異なります。
医療従事者であっても、その違いを正確に説明できる人は少なく、
現場で倫理的な葛藤を抱えることも少なくありません。

■ 「安楽死」とは
「安楽死(euthanasia)」とは、患者の耐え難い苦痛を取り除くために、
医療者など第三者の手によって意図的に死を早める行為を指します。
その目的が「苦痛の除去」であっても、生命を終わらせるという点で倫理的・法的に極めて重い行為です。
安楽死には主に以下の分類があります:
- 積極的安楽死(active euthanasia):
医師などが致死量の薬物を投与し、生命を直接的に絶つ行為。
→ 日本では刑法上「殺人罪」や「嘱託殺人罪」に該当し、明確に違法です。 - 消極的安楽死(passive euthanasia):
延命治療や生命維持装置を中止・撤去することで、死期を早める行為。
→ 医療行為の中断が「適切な判断のもとで行われたか」によって、
法的な評価が分かれるグレーゾーンです。
海外ではオランダ、ベルギー、カナダなどで一定の条件下で安楽死が合法化されていますが、
日本ではいかなる形態でも法的に認められていません。
■ 「尊厳死」とは
一方の「尊厳死(death with dignity)」は、
延命治療を望まず、自然の経過に委ねて死を迎えることを尊重する考え方です。
つまり「死を早める」のではなく、「不必要に延命しない」という立場です。
日本では明確な法律は存在しないものの、
日本尊厳死協会などによって「リビングウィル(事前指示書)」制度が普及し、
一定の社会的理解が広がっています。
尊厳死の前提はあくまで本人の意思の尊重です。
しかし現場では、本人の意思確認が困難な場合や、家族間で意見が割れる場合も多く、
「誰の意向を優先すべきか」という倫理的葛藤が常につきまといます。
■ 医療者としての立場
私自身は、安楽死には明確に反対の立場です。
「生を終わらせる行為」を他者に委ねることは、
その基準や責任をどこに置くかという問題を生じさせます。
どれほど本人の苦痛を和らげたいという善意からであっても、
医療者が“死を与える”ことを正当化する社会には、
取り返しのつかない危うさを感じます。
■ 尊厳死への複雑な思い
一方で、尊厳死については、正直に言えば心が揺れます。
自分が患者の立場になったなら、
「苦痛の中で無理に生き延びるより、自然な最期を選びたい」と思うでしょう。
けれど、もし肉親が同じ選択をしたら――
おそらく私は迷い、そして引き止めるかもしれません。
頭では理解できても、
情の世界は理屈では整理できないのです。
医療者として「患者の意思を尊重する」と言いながらも、
“愛する人を手放す”覚悟を求められたとき、
その重さを痛感します。

■ 結びに
安楽死も尊厳死も、「命の扱い」をどう考えるかという根源的な問いを私たちに投げかけています。
医療は「生かすための営み」でありながら、
同時に「死を見届ける営み」でもあります。
だからこそ、正解を求めるよりも、
その揺れや迷いを受け入れる姿勢こそが、
医療者に求められる成熟ではないでしょうか。
私たちが本当に向き合うべきなのは、「死」そのものではなく、
その人の“生き方”を、最後まで支えることだと思います。
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