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優生思想は現場の私たちにも潜む ― 津久井やまゆり園事件からの問いかけ
「優生思想」と聞くと、過去の歴史的事件を思い起こす人が多いでしょう。
日本の旧優生保護法による強制不妊手術や、ナチス・ドイツの障害者抹殺政策はその典型です。
しかし、問題はそれが過去の出来事にとどまらないことです。
優生的な発想は、現代の医療・福祉の現場、そして私たち支援者自身の中にも忍び込んでいる可能性があります。
出生前診断と医療者の関与
出生前診断が普及する中で、医療従事者は「障害がある可能性」を伝える立場にあります。
その際、言葉の選び方ひとつで、家族に与える影響は大きく変わります。
「産むか産まないかはご家族の自由」と言いつつも、社会的支援の乏しさや偏見がある環境では、事実上「産まない選択」を促すような空気を作ってしまう危険があります。
支援者が中立を装いつつも、無意識に優生的な価値観を反映してしまうことがあるのです。
リハビリ・福祉現場における「効率」と「価値」
私たち理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、看護師、介護職は、日々「限られた資源の中で最大限の効果を上げる」ことを求められています。
その中で「効率の悪い介入」「社会復帰の可能性が低い利用者」への支援が軽視されることはないでしょうか。
「治らないから意味がない」「社会に貢献できないから仕方ない」――そうした言葉は、現場の疲弊や制度の限界から生まれるものであっても、根底には優生思想と同じ構造が潜んでいます。
それほど露骨でなくても、限られた時間でリハビリの優先順位をつけることは普通に行なわれています。
津久井やまゆり園事件が突きつけたもの
2016年の津久井やまゆり園事件で、元職員が語った「障害者は不幸しか生まない」という言葉は、極端で暴力的な形に過ぎません。
しかしそれは、社会や現場に蔓延する「生産性で命の価値を測る発想」を拡大させたものと考えるべきでしょう。
私たちは「自分はあの加害者とは違う」と安心してはいけません。
支援者として日々の言動の中に、同じ発想の芽が潜んでいないかを常に問い直す必要があります。
自分の胸に手を当てて、よく考えてください。
専門職としての姿勢
優生思想と対峙するとは、「人の価値を能力や効率で測らない」という原点に立ち返ることです。
・障害の有無にかかわらず尊厳を守ること
・本人や家族の語りを丁寧に聴くこと
・「支援する側にとって効率が悪いから」と判断しないこと
これらを実践することが、私たち医療・福祉従事者に課せられた責務です。
おわりに
津久井やまゆり園事件は、私たち支援者にとって「他人事」ではありません。
現場に潜む優生的な価値観を直視し、自らを問い続ける姿勢こそが、再び同じ悲劇を繰り返さないために必要なのだと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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