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「障害」とは、どこにあるのだろう?
――リハビリテーションから考える「できない」と社会の関係
理学療法士として長く働いていると、ときどき考えることがあります。
「障害」とは、いったいどこにあるのだろう?
病気や事故によって、歩けなくなる。
手が動かしにくくなる。
目が見えにくくなる。
耳が聞こえにくくなる。
私たちは、こうした身体の変化を見て「障害」と考えがちです。
しかし、本当に障害はその人の身体の中だけにあるのでしょうか。
車椅子に乗っていることが「障害」なのか
例えば、脊髄損傷などによって歩行が難しくなり、車椅子を利用している人がいるとします。
その人が街へ出れば、
段差がある。
階段しかない。
通路が狭い。
電車に乗りにくい。
そんな場所にたくさん出会います。
その結果、行きたい場所へ行けなかったり、誰かの助けが必要になったりします。

では、もし街のすべてが車椅子で移動しやすく設計されていたらどうでしょう。
段差がなく、十分な幅の通路があり、公共交通機関にもそのまま乗れる。
もちろん、それですべての困難がなくなるわけではありません。
それでも、生活の中で経験する「できない」はかなり減るでしょう。
つまり、
同じ身体であっても、環境によって生活上の困難は大きく変わるのです。
これは現在のWHOのICF(国際生活機能分類)の考え方にも通じます。
ICFでは、障害を単純に病気や身体機能だけから捉えるのではなく、心身機能、活動、参加、そして環境因子などが相互に関係するものとして考えます。(世界保健機関)
手話が「特別」ではなかった島
このことを考えるとき、よく紹介されるのがアメリカのマーサズ・ヴィンヤード島です。
この島では、かつて遺伝的な背景から、ろう者が比較的多く暮らしていました。
そのため島では、ろう者だけでなく聴者も手話を使っていたことが知られています。
Gallaudet Universityの資料にも、何世代にもわたって遺伝性の難聴・ろうの人々が暮らし、島の住民全体が手話を使用していたことが記録されています。(Gallaudet University)
ここで興味深いのは、
「耳が聞こえない人だけがコミュニケーション方法を変えた」のではない
ということです。
周囲の人たちも手話を使った。
その結果、聞こえないことによって生じるコミュニケーション上の壁は小さくなりました。
身体の状態が変わったわけではありません。
社会の側が、その人に合った環境になっていたのです。

「自分の方が障害を持っている」と感じた経験
私自身にも、それに近い経験があります。
以前、聴覚障害のある方が多く利用する施設を訪れたことがあります。
そこでは手話が、ごく普通のコミュニケーション手段として使われていました。

食事の時間になると、周囲では楽しそうに会話が続いています。
ところが、手話が分からない私は、その会話に入ることができません。
そのとき、不思議な感覚になりました。
「ここでは、自分の方がコミュニケーションに困っている」
いつも自分が暮らしている社会では、音声言語を使えることが「普通」です。
でも環境が変われば、その「普通」は簡単に変わります。
誰が「できる人」で、誰が「できない人」なのか。
それさえ、環境によって変わるのだと感じました。

暗闇では立場が逆転する
もう一つ、印象に残っている体験があります。
「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」です。
完全に光を遮断した暗闇の中を、視覚障害のあるアテンドの案内で体験するプログラムです。
私が体験したのはずいぶん前ですが、ダイアログ・イン・ザ・ダークは2026年現在も東京で開催されています。(ダイアログ・イン・ザ・ダーク)

暗闇の中に入ると、それまで頼っていた視覚が使えません。
見えることに慣れている参加者は戸惑います。
一方、案内してくれる視覚障害のある人は、暗闇の中で声や音、触覚などを使いながら私たちを導いてくれます。
普段の社会とは、立場が逆転します。
ここでも身体そのものが変化したわけではありません。
環境が変わったことで、「できる」と「できない」の関係が変わったのです。

高校野球で「聞こえない」をチーム全体で補った
2014年には、島根県の益田東高校野球部に、先天性の難聴がある広中蒼磨選手が在籍していました。
当時の報道によると、広中選手とのコミュニケーションのために部員たちが手話や指文字を学び、約80人の野球部員がコミュニケーション方法を共有していました。(楽天ブログ)
ここでも重要なのは、
「聞こえるようにしてから野球をしよう」と考えなかったこと
だと思います。
聞こえないのであれば、コミュニケーション方法を変える。
本人だけに努力を求めるのではなく、周囲も変わる。
そうすれば、それまで障壁になっていたものを小さくすることができます。

では、リハビリは何を変えるのか?
ここまで考えると、リハビリテーションにも一つの問いが生まれます。
私たちは、
「できない身体を、できる身体に変えること」
だけを目標にしていないでしょうか。
もちろん、回復する可能性のある身体機能に対して適切なリハビリを行うことは重要です。
歩けるようになる。
手が使えるようになる。
痛みが減る。
体力がつく。
そうした変化によって、その人の生活が広がることはたくさんあります。
でも、もう一つの方法があります。
本人を変えるのではなく、環境や方法を変えることです。
「普通に近づける」ことは、本当にその人のためなのか
この問題を考えるうえで、私が以前から強く印象に残っているのが、サリドマイド被害当事者である増山ゆかりさんの話です。
増山さんはサリドマイドの影響による上肢の障害があり、長年、薬害被害者の支援や医療政策などに関わってきました。
現在も活動を続けており、2026年には、希少疾患や複雑な症状を持つ人が必要な医療へアクセスできる社会を目指す活動を展開しています。(READYFOR)

以前、増山さんが語っていた幼少期の経験が印象に残っています。
足を使えば食事ができる。
しかし、「将来社会で生活するためには手を使った方がよい」という考えから、手を使うための訓練が行われた。
そこにはおそらく、
「できるだけ一般的な方法で生活できるようにしてあげたい」
という支援者側の善意があったのでしょう。
けれども、ここで考えてみたいのです。
本人は、すでに別の方法で「できていた」のではないか。

「できる」と「普通にできる」は違う
食事という活動の目的は何でしょう。
フォークを手で持つことでしょうか。
それとも、自分で食事をすることでしょうか。
もし足を使うことで安全に、自分で食べることができているのであれば、
「手を使わなければならない」
という考えは、どこから生まれたのでしょう。
そこには、
「食事は手でするもの」
という、私たちの側の「普通」が入り込んでいる可能性があります。
もちろん、新しい方法を獲得するための訓練そのものを否定する話ではありません。
選択肢が増えることには意味があります。
大切なのは、
その訓練を本人が望んでいるのか。
その訓練によって本人の生活が本当に良くなるのか。
ということです。
善意が、ときに「普通」を押しつける
リハビリ職は基本的に、
「できるようになってほしい」
と思っています。
それ自体は悪いことではありません。
むしろ、その思いがあるからこそ私たちは患者さんと一緒に何度も練習します。
しかし、その善意の中に、
「歩いた方がいい」
「手を使った方がいい」
「普通の方法でできた方がいい」
という私たち自身の価値観が入り込むことがあります。
その瞬間、
「あなたの今のやり方では十分ではありません」
というメッセージを、知らないうちに本人へ送ってしまう可能性があります。
支援する側には、その危うさを自覚しておく必要があると思います。
「治す」か「諦める」かの二択ではない
ここは、昔この記事を書いたときから、私自身の考え方が少し変わったところでもあります。
以前は、
「回復が難しければ、いつまでも治すことに固執しない方がよい」
という書き方をしていました。
今でも、その考えの根底にあるものは変わりません。
ただ、現在はもう少し違う捉え方をしています。
「治す」か「諦める」かではありません。
身体機能の回復を目指しながら、道具を使ってもいい。
歩行練習をしながら、車椅子で外出してもいい。
発声の練習をしながら、手話や文字を使ってもいい。
一つの方法に決める必要はありません。
回復を目指すことと、今ある能力で生活を広げることは両立できます。
リハビリが変えられるものは、身体だけではない
WHOのICFでは、環境は人の活動や社会参加を妨げる「阻害因子」にも、それを助ける「促進因子」にもなり得ると考えます。
そしてリハビリテーションには、身体機能そのものへの介入だけでなく、環境を調整して実際の生活での活動を広げるという考え方があります。(世界保健機関)
つまり、私たちが変えられるものは身体だけではありません。
段差をなくす。
福祉用具を使う。
コミュニケーション方法を変える。
家族や周囲の人に理解してもらう。
職場の環境を変える。
制度を利用する。
社会の側の「当たり前」を見直す。
それらもすべて、その人の「できる」を増やす方法です。

「この人に何ができないか」ではなく
患者さんを見るとき、私たちはつい、
「何ができないか」
を評価します。(私が理学療法士に成り立てだった頃は、そう教育されました)
歩けない。
立てない。
手が使えない。
聞こえない。
話せない。
もちろん、それを評価することは専門職として必要です。
でも、そこで終わりにしたくありません。
「この人が生活するうえで、何が邪魔をしているのだろう?」
と考えてみる。
本人の身体なのか。
環境なのか。
道具なのか。
周囲の人とのコミュニケーションなのか。
制度なのか。
それとも、私たち支援者自身が持っている「普通」という価値観なのか。
原因が変われば、支援の方法も変わります。
おわりに――変えるべきなのは、誰なのだろう?
「障害」という言葉を考えると、私たちはどうしてもその人の身体に目を向けます。
しかし現在のICFでも、障害は健康状態だけで決まるものではなく、環境や個人因子との相互作用として捉えられています。(世界保健機関)
身体を変えることで、できるようになることがあります。
道具を変えることで、できるようになることもあります。
環境を変えることで、できるようになることもあります。
そして、
周囲の人の考え方が変わるだけで、できるようになることさえあります。
だからリハビリテーションで、
「この人をどう変えるか」
だけを考えるのではなく、
「この人が生きやすくなるために、何を変えればいいのだろう?」
と考えてみたい。
変えるべきなのは、患者さんの身体とは限りません。
環境かもしれない。
方法かもしれない。
社会かもしれない。
そして時には、
支援する私たち自身の「当たり前」なのかもしれません。
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