先日、NHKで放送されている数少ない良心的番組、「ハートネットTV」を観て、ハッとしたことがありました。
それは僕が長年抱いていた「障害は個性」という言葉への違和感の原因がわかった瞬間でした。
もう少し詳しく話すと、その回のハートネットTVでは、さまざまな障害や多様性を待っている人がゲストに来ていました。
お坊さんでもあり、性的マイノリティでもある西村宏堂さんが、いかにして仏教界でマイノリティである自分を受け入れていったかを語っていました。
確か「みんな違ってみんないい」というような言葉も引用し、多様性の重要さを訴えていと思います。(うる覚えですみません。)
そこまではいわゆる「いい話」だったのですが、そこに一石を投じたのは豆塚エリさんでした。
豆塚さんは車椅子ユーザーの詩人の方です。
彼女はこう言いました。
「私はみんな違ってみんないいとか、障害は個性だって言葉が大嫌いなんです。
そういう多様性とか障害を個性だって言うことで、解決すべき問題があるのにそれを個人のせいにしているような気がするんです」と。
また彼女は、言葉を選びながらこんなことも言っていました。
「障害は個性だって言うけど、みんなこんな身体になりたいと思いますか?」
少し空気が緊張しました。
彼女の叫びは悲痛でした。
その時、ある下肢切断で義足の男性が肯定的な発言をしたのです。
「営業をしていると障害を持っていることで、取引先の人にかえって覚えてもらえるというメリットもあるんです。」
障害を逆手に取る前向きな発言でした。
多分、実際にそういうこともあるのでしょう。
彼が自分の障害を乗り越えるために、逆転の思想をするのも容易に理解できます。
彼は、いわゆる社会が求めている優等生としての障害者像です。
豆塚さんは自分の言った言葉がうまく伝わらず、もどかしさを、感じているようでした。
そこに全盲の弁護士の大胡田誠さんが、彼女の言葉を補足してこのように言いました。
「障害を持って生活をすることは大変なんです。障害は個性だとかそんな標語みたいな言葉を使ってわかった気になって欲しくない。」
僕はテレビの前で、思わず膝を叩いて「そう!」と頷きました。
それこそ僕が長年抱いていた違和感そのものでした。
僕も以前は、「障害は個性」という言葉を使ったことがあります。
アートの分野では、障害を抱えた人が飛び抜けた才能を発揮する場面を何度か見ていましたし、そこに新しい可能性みたいなものを感じたこともありました。
ですが難聴という障害を抱えてからは、何となく違和感というか、モヤモヤ感を感じていました。
耳が聞こえづらいのは本当に大変。
すごいストレスです。
辛いことしかありません。
誰が好き好んで障害者になったのでしょう。
「障害は個性」という言葉は、現実から離れた空虚な言葉に響きます。
「個性」と言う言葉はさまざまなことを曖昧にしてしまいます。
こんなことも知人から言われたことがあります。
「世の中にはざまざまな人がいるし、障害もその一つとして考えれば個性だからいいじゃない?」
多分良かれと思って言っているんでしょうけど、余計お世話です。
みんなで取り組むべき人々の生きづらさを社会全体でする努力をしないで、そんなことを言わないで欲しいです。
生きづらさを社会的で解決することが前提です。
それをしたうえで、当事者が解消しえなかった部分を受け入れ、そこで初めてその言葉を当事者自身が使えるのだと思います。
言葉が強くなってしまいました。
あくまで個人の考えなので、不快に思われた方がいたら、申し訳ありません。
ありがとうございました。